2009年6月12日金曜日

新しい真理の使命

原理講論p.31、総序より
「この真理はまず、既に論じたように、宗教が探し求めてきた内的真理と科学が探し求めてきた外的真理とを、統一された一つの課題として解決し、それによってすべての人々が、内外両面の無知を完全に克服し、内外両面の知に至ることができるようなものでなければならない。」

・・・全ての人々が、内外両面の知に至る・・・

この統一原理が、本当に宗教と科学とを
統一課題として解くことができる真理ならば、

人間の知的好奇心を満たしてくれる、
最高の宝となるでしょうね。

2009年6月11日木曜日

新しい真理のみ言がやがて与えられる

原理講論p.31、総序より
「このような新しい真理のみ言がやがて与えられるということは、聖書の中にも数多く記録されている。」
「それでは、その新しい真理は、いかなる使命を果たさなければならないのであろうか。」

・・・いかなる使命を果たさなければ・・・

そうなのです。
この後の投稿に列挙する、その真理の使命が重要なのです。

世界と人類を本当の幸福へと導く、
道しるべとなるような、新しい真理です。

2009年6月9日火曜日

キリスト教信徒たちにとっては、理解し難いこと

原理講論p.30、総序より
「新しい真理が現れなければならないという主張は、宗教人たち、特にキリスト教信徒たちにとっては、理解し難いことのように思われるかもしれない。」
「なぜなら、彼らは、彼らのもっている聖書が、それ自体で完全無欠なものだと考えているからである。」

・・・聖書が、それ自体で完全無欠・・・?

キリスト教は、イエスが十字架で昇天されて以降、
ずーっと世界の中心宗教として、活躍してきました。
そして、イエスによってもたらされた博愛が世界を救ってきたのも事実です。

だからといって、聖書自体が真理なのではありません。
では、何が真理だったのか?

ヨハネによる福音書14章6節
「イエスは彼に言われた『わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

そうです。イエス様ご自身が真理だったのです。

イエス様がこの地上で福音のみ言を伝えることができたのは、
エルサレムに戻られてから、十字架にかけられるまでの、たった3年間・・・。

すべてを語り尽くせなかったのでした・・・

2009年6月8日月曜日

宗教と科学とは、人生両面の無知を打開

原理講論p.29-30、総序より
「このように、宗教と科学とは、人生の両面の無知を打開するための使命を、各々分担して出発したがゆえに、その過程においては、それらが互いに衝突して、妥協し難い様相を呈したのであるが、人間がこの両面の無知を完全に克服して、本心の要求する善の目的を完全に成就するためには、いつかは、科学を探し求めてきた宗教と、宗教を探し求めてきた科学とを、統一された一つの課題として解決することのできる、新しい真理が現れなければならないのである。」

・・・統一された一つの課題として・・・

今、宗教と科学とが統一された一つの課題として
解決されねばならない時を迎えていると思う。

唯物的な科学万能を否定するということではなく、
また、心霊的にのみ感じる世界を否定することでもなく、

宗教と科学とがお互いに欠如している部分を補い合うこと。

早く、統一原理をもとに、霊界の存在を科学的に立証できればと思うのです。

私たちの人生において、「霊界」が存在するか、存在しないか、
ということが、生き方を大きく左右する問題ですよね。

2009年6月6日土曜日

宗教が無能化

原理講論p.28-29、総序より
「自家撞着を打開できないところに、現代の宗教が無能化してしまった主要な原因があると思われるのである。」
「さて、宗教が、このような運命の道をたどるようになったのには、更にもう一つの重要な原因があるのである。それは、科学の発達に伴い、人間の知性が最高度に啓発された結果、現代人はすべての事物に対して科学的な認識を必要とするようになったにもかかわらず、旧態依然たる宗教の教理には、科学的な解明が全面的に欠如しているという事実である。」

・・・科学的な解明が全面的に欠如・・・

宗教では「信じる」ことで救われる、とか
「信じる」ことで、願いがかなう、とか

「信じる」力があるのですが、

なぜ、「信じる」ことが必要なのかは、
経験的に理解しているだけであって、

その「信じる」力を、
科学的に解明した宗教は無いのではないかと思う。

なぜ「信じる」ことが必要なのか・・・

私は、この統一原理を学ぶことで、
「信じる」ということを科学的に理解することができた。

つまりは、統一教会はただやみくもに「信じなさい」
と、言っていいる宗教ではないのですね。

2009年6月2日火曜日

現実を離れた来世はあり得ない

原理講論p.28、総序より
「現実を離れた来世はあり得ないがゆえに、真の肉身の幸福なくしては、その心霊的な喜びもあり得ないのである。」
「しかしながら、今日までの宗教は来世を探し求めるために、現実を必死になって否定し、心霊的な喜びのために、肉身の幸福を蔑視してきたのである。」

・・・肉身の幸福を蔑視・・・

宗教的に真理を追求しようとすると、
その先には必ず、肉身の欲望との葛藤が生じる。
そして、心霊的な世界を善、肉欲の世界を悪のように見つめてしまった。

でも、私たちがこの世界で幸福を求めようとするなら、
目で見て、からだで触れて、肉体で体験できる幸福も必要。

それは、自分のからだが一番よく知っていますよね。

それを無理に否定しようとするところに、宗教の限界があるのでした。

2009年6月1日月曜日

いかんともなしえない社会悪

原理講論p.27、総序より
「人間の努力をもってしては、いかんともなし得ない社会悪が一つある。それは、淫乱の弊害である。」
「キリスト教の教理では、これはすべての罪の中でも最も大きな罪として取り扱われているのであるが、しかし、今日のキリスト教社会が、現代人が陥っていくこの淪落への道を防ぐことができずにいるということは、何よりもまた嘆かわしい実情といわなければなるまい。」

・・・淫乱の弊害・・・

渋谷の街を散歩してみると、
「淫乱の弊害」がそのまま形状化したのでは、
と、思えてしまう光景を目の当たりにする。

未来あるはずの若者が、淫乱の世界へ向かって行く姿・・・。

キリスト教ですら、「淪落への道を防ぐことができずにいる」というのに、

過去の歴史に、キリスト教文化を受け入れなかった日本民族があるので、
なおさら、淪落に歯止めがかからないというのも、うなずけることかもしれない。

私の知る限り、この性の淪落に歯止めをかける「純潔運動」は、
文鮮明先生の提唱する統一運動でしかやっていない。

日本純潔運動本部
http://www32.ocn.ne.jp/~junketsuundou/

この「純潔運動」が若者の間で流行して、

「純潔って、カッコいい!!」

となれば、日本の未来は明るいのにね。