2009年11月29日日曜日

神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体

原理講論p.46、第一章創造原理
第一節神の二性性相と被造世界
(一)神の二性性相より


「既に述べたように、存在するものはいかなるものでも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在するという事実が明らかにされた。」
「それゆえに、森羅万象の第一原因としていまし給う神も、また、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在せざるを得ないということは、当然の結論だといわなければならない。」
「創世記一章27節に『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された』と記録されているみ言を見ても、神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体としてもいまし給うということが、明らかに分かるのである。」

・・・神は自分のかたちに人を創造・・・

神自体は無形ですが、
見えるかたちにしてみると、それが、人の姿ということです。

しかも、男性と女性の二人に分けられるのです。

つまり、男性と女性の原点は神という一つの存在なので、
男性と女性は一つになることで、神に似てくるということになりますね。

陽性と陰性が中和ということは、かたよらずにバランスがとれた状態
すなわち、安定して、調和がとれているということ。

調和の取れた夫婦関係を築くことが、人間が神に似るための一番の近道かな。

2009年11月27日金曜日

あらゆる存在の第一原因

原理講論p.46、第一章創造原理

第一節神の二性性相と被造世界
(一)神の二性性相より

「この存在は、まさしく、あらゆる存在の第一原因として、これらすべてのものの主体となる性相と形状とを備えていなければならない。存在界のこのような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相と形状のことを、神の本性相と本形状というのである。」
「我々は、今、パウロが論証したように、あらゆる被造物に共通に見られる事実を追求することによって、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体として、すべての存在界の第一原因であられることが理解できるようになった。」

・・・二性性相の中和的主体・・・

神は無形の存在なので、本性相も本形状も無形です。
中和とはどちらにもかたよらないで、バランスの取れた状態を意味します。

もっとわかりやすく表現すれば、
「思い」(性相)と「行動」(形状)が一致している、ということになるかと思います。

そして、「すべての存在界の第一原因」なので、「主体」となります。

2009年11月24日火曜日

エネルギーが素粒子を形成

原理講論p.46、第一章創造原理
第一節神の二性性相と被造世界
(一)神の二性性相より

「今日の科学によると、原子を構成している素粒子は、すべてエネルギーから成り立っているという。」
「それゆえ、そのエネルギーが素粒子を形成するためには、必ずそのエネルギー自体の中にも、素粒子形成の目的を指向する性相的な部分がなければならないということになる。」
「更に一歩進んで、このように性相と形状とを備えているそのエネルギーを存在せしめることによって、あらゆる存在界の究極的な原因となるところのある存在を我々は追求せざるを得なくなるのである。」

・・・究極的な原因・・・

「物質の誕生」に関してウィキペディアを参照すると、
『ビッグバン仮説によれば、ビッグバンにより始まったエネルギーは、やがて素粒子を生み出し、素粒子が結合して原子となる。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B3%AA#.E7.89.A9.E8.B3.AA.E3.81.AE.E8.AA.95.E7.94.9F

と、あります。

無形のエネルギーがどうして、形状を持つ素粒子を形成したのか?
これは、科学的視点から、宗教的な視点へ移さなければ、
回答を得ることはできない内容です。

そこで、「素粒子形成の目的を指向する性相的部分」となるわけです。

さらに、そのエネルギーはどこから・・・?

もはや、科学の分野では解明不可能なところに行きつきます。

その究極的な原因を、『神』と呼んで間違いないですよね。

2009年11月17日火曜日

根本的な、いま一つの二性性相の相対的関係

原理講論p.44、第一章創造原理
第一節神の二性性相と被造世界
(一)神の二性性相より

「我々はすべての存在を形成しているもっと根本的な、いま一つの二性性相の相対的関係を知らなければならない。」
「存在するものはすべて、その外形と内性とを備えている。そして、その見えるところの外形は、見ることのできない内性が、そのごとくに現れたものである。」
「したがって、内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。」
「そこで、前者を性相といい、後者を形状と名づける。」
「ところで、性相と形状とは、同一なる存在の相対的な両面のかたちを言い表しており、形状は第二の性相であるともいえるので、これらを総合して、二性性相と称するのである。」

・・・相対的な両面のかたち・・・

人間にとって 『性相』=『心』、『形状』=『体』

『心』は目で見ることができません、
しかし、私たち人間には、間違いなく心がありますね。

そして、『心』を目で見ることができないからといって、
人の『心』を知ることができないわけではないですよね。

その人の表情や、しぐさ、着ている服・・・・よく見れば、
機嫌が良いのか悪いのか、元気なのか落ち込んでいるのか
その人の『心』を知ることができます。

見えない『心』が、見える『体』に、
そのまま表れるようになっているのです。

それがすなわち、「同一なる存在の相対的な両面のかたち」
ということです。

2009年11月14日土曜日

普遍的に潜んでいる共通の事実

原理講論p.42、創造原理
第一節神の二性性相と被造世界
(一)神の二性性相 より

「今我々は、神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。」
「存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相(にせいせいそう)の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在するようになるのである。」

・・・陽性と陰性の二性性相・・・

「性相」という言葉は、日本語では、
ほとんど使うことがないために、
はじめて統一原理にふれる人にとっては、
意味が分かりにくいかもしれません。

「性」とは、もともと備わっているものをあらわし、
「相」とは、そのもののありさまをあらわします。

何だか、もっとわかりにくくなってしまいましたが、

創造原理では、この「性相」という言葉がたくさん使われます。

この言葉は、直接見ることができない本質を言い表している
と理解すると良いかもしれません。

2009年11月9日月曜日

無形にいます神の神性

原理講論p.42、創造原理
第一節 神の二性性相と被造世界
(一)神の二性性相 より

「あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟(せいひん)の実体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたものなのである。」

・・・神性の、その実体対象・・・

自然界における、森羅万象を目撃する時、
例えば、

荘厳な山々、深い緑に包まれた森・・・

静かな湖畔に霧が立ち込める姿・・・

薄明るい東の空から昇ってくる太陽・・・

荒れ狂う波しぶきが雪のように舞い散る海岸・・・

・・・偶然に、このような場面に遭遇したと思ってしまえば、
何の情緒も、感動も生じないでしょうね。

「神が宿るような世界だなぁ」と思うからこそ、
そこに畏敬の念を感じ、また感動をおぼえ、
誰もが神性を感じる瞬間なのではないでしょうか。

実体対象とは、この世にある全て存在の事を指します。

この世にある全ての存在には、神性が宿っていると考えたらわかりやすいのです。

2009年11月6日金曜日

人生と宇宙の根本問題を解決するために苦悶

原理講論p.41、第一章創造原理より

「人間は長い歴史の期間にわたって、人生と宇宙の根本問題を解決するために苦悶してきた。けれども、今日に至るまで、この問題に対して納得のいく回答を我々に与えてくれた人はまだ一人もいない。」
「それは本来、人間や宇宙がいかに創造されたかという、究極の原理を知らなかったからである。」

・・・究極の原理を知らなかった・・・

普通の人間であれば、人生の中で一度は
「自分の人生って何なのだろう・・?」
と、考えますよね。

しかし、考えても考えても、
親に聞いても、先生に聞いても、
答えが見つからないので、

結局、自分に妥協して、
「そんなこと考えても仕方がないか」と、ひらきなおって、

最低限、悲しい人生にならないように
「豊かに生活するための人生」になってしまっています。

その生き方が悪いと言っているのではありませんが、
私たちの人生には、明確な目的があるのです。

もっと価値ある人生への道を、統一原理は示そうとしているのです。

2009年11月4日水曜日

真理の光を浴び、蘇生していく

原理講論p.38、総序より

「暗い道をさまよい歩いてきた数多くの生命が、世界の至る所でこの真理の光を浴び、蘇生していく姿を見るたびごとに、感激の涙を禁ずることができない。いちはやくこの光が、全世界に満ちあふれんことを祈ってやまないものである。」

・・・感激の涙を禁ずることができない・・・

原理講論、総序の一番最後の部分。
ここをはじめて読んだ人たちが、
感涙する姿を、私は何人も目撃してきました。

はじめて統一原理にふれ、まだ何も分からないはずなのに、
何かを感じて、涙を流しているのです。

本人に聞いても、なぜかわからないけど、
自然に涙が出てくるという人ばかりでした。

統一原理・・・
批判的にではなく、真剣に求めて学べば
なぜ、人を引き込む力があるのか
必ずわかるはずです。

2009年11月2日月曜日

ここに発表するみ言はその真理の一部分

原理講論p.38、総序より

「ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。」

・・・それを切に待ち望む・・・

原理講論が出版されたのが1966年。
今から43年前の事です。
原理講論をまとめた方が劉孝元先生。

劉孝元先生が原理講論の草稿を文先生にお見せした時、
文先生が一字一句全てをチェックされ、
発表する時期に至っていない真理は削除されたと聞いています。

現在、文鮮明先生が公式に語られた『み言集』が700巻を超えています。
つまり、原理講論を出版された以降も、
継続的に、真理を発表してこられました。

切に待ち望んできた未発表の真理を知るためには、
文先生の『み言集』を読むことで理解できるのですね。
 ・・・すべて韓国語ですけど。