2009年5月30日土曜日

だれが我々の苦悶を最終的に解決してくれたであろうか。

原理講論p26、総序より
「哲人の中のだれが我々の苦悶を最終的に解決してくれたであろうか。聖賢の中のだれが人生と宇宙の根本問題を解決し、我々の歩むべき道を明確に示してくれたであろうか。」
「彼らが提示した主義や思想は、むしろ我々が解決して歩まなければならない種々様々の懐疑と、数多くの課題とを提起したにすぎなかったのである。」

・・・数多くの課題とを提起した・・・

ホントに宗教家の提示した主義や思想って、
疑問ばかりが多いですよね。

中東戦争の原因が、イスラム教とユダヤ教の宗教問題だったりして、
宗教が原因で平和をもたらさないことがありますね。

宗教的なエゴをなくさなければ・・・

宗教者ってエゴイスティックになりがち、
なので、私も、その辺はいつも反省です。

2009年5月28日木曜日

原因的な本質世界において、人生の根本問題を解決

原理講論p.25-26、総序より
「人間が歩んできたいま一つの過程は、結果的な現象世界を超越して、原因的な本質世界において、人生の根本問題を解決しようとする道であった。」
「この道を歩んできたこれまでの哲学や宗教が多大の貢献をなしたことは事実である。」

・・・哲学や宗教が多大の貢献・・・

哲学や宗教は、人生を豊かに過ごすため、
とても参考になることは事実だと思いますが、

日本人って、どちらかといえば宗教を軽視する傾向にありますよね。
でもその姿勢は、世界の非常識らしいです。

私の友人が、ニュージーランドに留学し、
ホームステイした時のことでした。

そのホストファミリーは敬虔なクリスチャンで、
食前、欠かさず、祈祷していました。

そのホストファミリーから、質問されました。
「君の宗派は何かね?」

彼は当たり前のように、こう答えました。
「僕は、無宗教です。」、と。

そのホストファミリーは驚いた様子で、
そして軽蔑にも似たまなざしで見つめて、

「では、あなたは何を信じて生きているのか?!」

と、言われたました。

相当なカルチャーショックだったようです。

そして帰国後、彼は母親にこう言ったそうです。
「お母さん、僕はどの宗教を信仰したらいいの?」、と。

世界中のほとんど人々は、信仰をもって当たり前なのです。
日本人ぐらいだと思いますよ、

特定の宗教をもたない民族は。

2009年5月27日水曜日

王宮の栄耀栄華をかなぐり捨てて

原理講論p25、総序より
「王宮の栄耀栄華をかなぐり捨てて、心の住み家を探し求め、所定めぬ求道の行脚を楽しむのは、釈迦一人に限ったことではない。」
「心があって初めて完全な人間となり得るように、喜びにおいても、心の喜びがあって初めて、肉身の喜びも完全なものとなるのである。」

・・・求道(ぐどう)の行脚(あんぎゃ)を楽しむのは・・・

おぉぉ・・なんと深い表現だろう。

確かに、「四国八十八ヶ所巡り」のお遍路さんなんかは、
修道者ではない一般の人たち(特に実業家など)が
何日もかけて、歩いて「求道の行脚」を楽しんでいますよね。

やっぱり、物質的な豊かさだけでなく、

・・・心の喜びがあって初めて、肉身の喜びも完全なものとなる・・・

のですね。

2009年5月26日火曜日

物質による結果の世界において

原理講論p24、総序より
「実際の人生の行路において、人間が歩んできた過程を二つに大別してみると、その一つは、物質による結果の世界において、人生の根本問題を解決しようとする道である。」
「このような道を至上のものと考えて歩んできた人々は、極度に発達した科学の前に屈伏し、科学の万能と物質的な幸福とを誇りとしている。しかし人間は、果たして、このような肉身を中心とした外的な条件のみで、完全なる幸福を得ることができるであろうか。」

・・・科学の万能と物質的な幸福を誇りとしている・・・

私も、科学の力と経済的豊かさで幸せになれる
と、思って、技術系サラリーマンとなり、
その業界では高い技術に誇りを持って仕事をしておりました。

自分の幼いころからの夢であった、技術者となったわけで、
それはそれで、夢を実現した喜びはありましたが、

しかし、何故か「虚(むな)しさ」を感じるのでした。

なんとなく、心が満足していないというか・・・
なんだかすっきりしない気持で仕事をしている自分がいました。

どうしてそういう気持ちになったのか・・・
それは、統一原理を学んでみて、
ようやく理解できました。

肉身を中心とする外的な豊かさ、だけでは、ダメだったのです。

2009年5月25日月曜日

宗教と科学が人生の無知を克服

原理講論p.24、総序より
「このような角度から理解すれば、宗教と科学とは、人生の両面の無知を克服して両面の知に至る道を見いだすべく両面の真理をそれぞれ探求する手段であったということを知ることができるのである。」
「それゆえに、人間がこのような無知から完全に解放されて、本心の欲望が指向する善の方向へのみ進み、永遠の幸福を獲得するためには、宗教と科学とが統一された一つの課題として解決され、内外両面の真理が相通ずるようにならなければならないのである。」

・・・宗教と科学とが統一された一つの課題として・・・

私が統一原理に初めて触れたとき、この言葉にとても感動し、
また、反面では、どうやってそんなことができるのか。

と、心を揺さぶられたのを思い出します。

宗教と科学とは、相容れない部分が多いのは誰もが知っています。
心霊的な世界を肯定する人たちと、それを否定する科学者などが
テレビ番組などで、面白おかしく対談(対決?)しているのをよく見ますが、
結局、どっちもどっち、中途半端で結論なく終わっていますよね。

もし、それを一つにすることができる真理があるとすれば、

『人間の生き方が大きく変わる。』

人類の未来へ大きな希望がある・・・かも、です。

2009年5月22日金曜日

真理を探し求めてきた

原理講論p.24、総序より
「人間は有史以来今日に至るまで、休むことなく、無知から知へと、無知を克服しようとして真理を探し求めてきた。」
「その際、内的無知を克服して内的知に至る道を見いだすべく内的真理を探求してきたのがすなわち宗教であり、外的無知を克服して外的知への道を見いだすべく外的真理を探求してきたのが科学なのである。」

人は誰でも知的好奇心を持っていますよね。
疑問があれば、どんなことでも知ってみたいと思う。

これって、無意識のうちに

・・・無知を克服しようとして真理を探し求めてきた・・・

から、だったんですね。

そして、宗教と科学に分けて真理を探究するようになった訳ですが、
ほんとうは、分けて考えちゃいけないことなのです。

2009年5月21日木曜日

外的な無知

原理講論p.24、総序より
「外的な無知とは、人間の肉身をはじめとする自然界に対する無知をいうのであり、すべての物質世界の根本は何であるか、また、それらのすべての現象は各々どのような法則によって生ずるのか、という問題などに対する無知をいうのである。」

・・・物質世界の根本・・・

ソクラテスの時代に、プラトンやアリストテレスが
物質世界に関して、今の科学とは違った形で複雑に考えていたそうで、
それをイデア論といいます。

物質世界の背後にイデアというひな形があってそれが真の実在という・・・。なんだか難しい。

ちなみに、ソクラテスの弟子がプラトン。
プラトンの弟子がアリストテレス。

その、プラトンやアリストテレスに
真っ向から対立したのが、デモクリトス。
原子論といいます。

現代科学の原子のもとになる考え方ですが、
しかしその当時の人々には受け入れられませんでした。

現代科学では物質自体の根本についてはほぼ解明されていますが、
物質世界(宇宙そのもの)がどのように出現したのか、
わからない部分があるのです。

ビッグバン(宇宙が始まる大爆発)まではわかっていますが、
なぜ、時間や空間が存在しない状態から、大爆発が起きたのか?
科学者はだれも答えられないのです。

本当は簡単な答えがあるのですけどね、
「神が起爆スイッチを押した」という答えが。

2009年5月20日水曜日

内的な無知

原理講論p.23-24、総序より
「内的な無知とは、宗教的にいえば霊的無知を言うのであって、人間はどこから来たのか、生の目的は何か、死後はいったいどうなるのか、更にすすんで、来世や神などというものは果たして存在するのか、また既に述べたように、善とか悪とかいうものはいったい何なのかなどという問題に対する無知をいうのである。」

・・・生(せい)の目的は何か・・・

自分が小学生5,6年生の頃だったと思う、

「人間って、何のために生きているの?」
「人間って、死んだらどうなるの?」

と、父親に聞いてみたことがあった。

父の答えはこうだった。

「うーん・・・・、生きるために生きてるのさ。」
「死んだら、『無』だな、『無』。何んにも無くなってしまうのさ。」

子供ながらに納得できなかったことをよく覚えている。

統一原理を学んで驚いたのは、
私が幼い時に抱いたこの疑問を
いとも簡単に解決してしまったことだった。

おそるべし、統一原理。

2009年5月19日火曜日

堕落を知的な面からみれば

原理講論p23、総序より
「人間の堕落を知的な面から見れば、それはとりもなおさず、我々人間が無知に陥ったということを意味するのである。」

・・・人間が無知に陥った・・・

紀元前400年ごろ、ソクラテスが「無知の知」で、
多くの知恵者より勝ると言われた。

ソクラテスって、神の啓示によって、
自分が一番の知恵者だと教えられたそうです。

何も知らないことが一番の知恵者とは・・・

神様も、面白いことをしますよね。

2009年5月18日月曜日

有神論と無神論とについて考えるとき

原理講論p23、総序より
「例えば、有神論と無神論とについて考えるとき、二つのうちいずれか一つを善と見なせば、他の一つは悪ということになるのであるが、我々はいまだどちらが正しいかということに対する絶対的な定説をもっていないのである。」

・・・絶対的な定説をもっていない・・・

私は、この統一原理に触れる以前は、
神の存在に関しては、肯定も否定もしていなかった、
というより、神について無関心だった。

日本人のほとんどが、神の存在について無関心だと思うし、
現に、私が関わりをもってきた人たちのほとんどがそうだった。

「定説を持っていない」言われても、
神がいると信じる人生と、神がいないと信じる人生とでは
いったい何が違うのか?という反応が多かった。

日本人って、先祖や仏様を信じる人は多いけれど、
「神様」ってなると、どうも難しいらしい。

本当は、神がいると信じる人生のほうが、もっと豊かな心になれるのにね。

2009年5月16日土曜日

善の欲望に従って

原理講論p.23、総序より
「人間は、このように堕落して自己破滅に瀕しているということを知っているがゆえに、邪心からくる悪の欲望を取り除き、本心から生じてくる善の欲望に従って、一つの目的を指向することによって、それ自体の矛盾性を除去しようと、必死の努力をしているのである。」
「しかし、悲しいかな、我々は、その究極において、善と悪とがそもそもいかなるものなのかという問題を解くことができずにいるのである。」

・・・その究極において、善と悪とがそもそもいかなるもなのか・・・

「善」ってなんだろう。今まで深く考えたこともなかった・・・
人類幸福へのカギを握っている「善」なる欲望、これすら何なのかわからない。

人間って、人生の重要な部分を何も知らないのか?

2009年5月13日水曜日

人間は堕落したのだ

原理講論p.22-23、総序より
「人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。」
「このような観点から見るとき、我々は、人間は堕落したのだという結論に到達する。と同時に、だれしもこの結論に対しては反駁する余地がないということをもまた知るのである。」

・・・反駁する余地がない・・・

反駁って難しい言葉ですよね。

Yahoo!辞書 で検索すると
 はん‐ばく【反駁】
 [名](スル)他人の主張や批判に対して論じ返すこと。反論。「例をあげて―する」

たしかに、人間は堕落したということについて、反論できる人はいないと思う。

2009年5月11日月曜日

矛盾性は、後天的に生じた

原理講論p.22、総序より

「もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。」
「したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。」

・・・地上に生(せい)を享(う)ける以前から・・・

つまりは、先天的に矛盾性(本心と邪心)を持っていた場合ということですね。

もしも、この世界に善悪が混在できる世界だったとするならば、
人間は、悪を行っても、良心の呵責を感じたり、
心に矛盾を感じたりすることもなかったはず。

だから、・・・生まれるというそのこと自体不可能・・・

やっぱり、そうなんだ。
やっぱり、人間の心の矛盾は、後天的なものだったんだね。

だったら、改善の余地があるよね!

2009年5月9日土曜日

矛盾性をもつようになれば

原理講論p.22、総序より

「存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。」
「したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。」

・・・正に破滅状態・・・

人間自体の「心」が、壊れてるってことですね。
だから、自分の心が抑えられずに、悪いことばっかりしてしまう。

人間って、初めからこういう存在(破滅状態)だったのだろうか?

2009年5月6日水曜日

本心の指向性・・・邪心の指向性・・・

原理講論p.22、総序より

「ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。」

・・・熾烈な闘争を展開・・・

自分の心(本心)の声に聞き従って生きようとすると、
心の中で、まさに「熾烈な闘争を展開」するのを感じる。

そのたびに、いつも悪の欲望に負けていたりして・・・

やっぱり、「人間」って、矛盾しているよね。

2009年5月4日月曜日

不義なる欲望のままに行動して・・・

原理講論p.21、総序より

「いったい、不義なる欲望のままに行動して、本心から喜べるような幸福を味わい得る人間がいるであろうか。」
「このような欲望を満たすたびごとに、人間はだれしも良心の呵責を受け、苦悶するようになるのである。」

・・・苦悶するようになる・・・

だから、多くの人たちは、良心の呵責を感じたくないから、
善だとか悪だとか、義だとか不義だとかを深く追求しないで、

楽しいことだけを見て人生を送ろうとしている。

でも、振り返れば、虚しい人生だったよね。
心から満足いく人生ではなかったよね。

2009年5月2日土曜日

本心の喜ぶ幸福を得ようと・・・

原理講論p21、総序より

「しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。」
「人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。」

・・・善を指向する欲望に従って・・・

どんな人でも、良いことをしたいと思っている。
まさに、「善を指向する欲望」が、自分の心の中にもあることを感じるよね。

原理講論には「本心」ってあるけど、これは、自分の本音という意味合いの「本心」ではなくて、
どちらかといえば、「本心」≒「良心」と理解したらわかりやすいと思う。