2009年12月28日月曜日

正分合作用

原理講論p.54、創造原理
第二節 万有原力と授受作用及び四位基台
(三)正分合作用による三対象目的を完成した四位基台
(1)正分合作用

「万有原力によって、神自体内の二性性相が相対基準を造成して授受作用をするようになれば、その授受作用の力は繁殖作用を起こし、神を中心として二性性相の実体対象に分立される。」
「このように分立された主体と対象が、再び万有原力により、相対基準を造成して授受作用をすれば、これらは再び、合性一体化して、神のまた一つの対象となる。」

・・・神のまた一つの対象・・・

すべての存在は、授受作用によって繁殖します。

はじめは一つの存在(正)が、
二つに分かれて(分)、
また一つの存在を生み出す(合)

どんどん繁殖します。

正分合作用とは、簡単に表現すると、発展の法則ということになります。

発展するためには、授受作用の方向性が重要です。
対立するのではなく、一つになろうと努力することに力を注ぐのです。
自分の主張を相手に理解させようとせず、
まずは、相手の主張を受け入れ理解する努力です。

共産主義の間違いは、『対立によって発展する』という部分です。

対立は発展を生みません、一つになることが発展を生むのです。

2009年12月25日金曜日

良心作用

原理講論p.52、創造原理
 第二節万有原力と授受作用、及び四位基台
(二)授受作用 より

「古今東西を問わず、いくら悪い人間であっても、正しいことのために生きようとするその良心の力だけは、はっきりとその内部で作用している。」
「このような力は、だれも遮ることができないものであって、自分でも知らない間に強力な作用をなすものであるから、悪を行うときには、直ちに良心の呵責を受けるようになるのである。」
「もしも、堕落人間にこのような良心の作用がないとすれば、神の復帰摂理は不可能である。」

・・・直ちに良心の呵責・・・

悪を行っても、『良心の呵責』を感じない人がいるとすれば、
それは、自分を偽っている人だと思う。

精神的な病にかかっている人が、感じないというのなら話は別です。

正常な心を持っている人が、このぐらいなら大丈夫かな、と思って
悪とは知りつつも、その行動をしてしまったとき、必ず、『良心の呵責』を感じて、
そのあと後悔の念に悩まされます。

そして、後悔したままだと苦しいので、それを正当化しようと、
心の中では「あれは正しい判断だった」「仕方なかった」などと
一生懸命、悪くないことだったと思い込もうとがんばります。

その結果、ますます、心が歪んでしまいます。

だから、人は宗教に救いを求めるようになるのです。
自分の罪悪を、罪のない方に理解してもらい、赦してもらうためにです。

2009年12月19日土曜日

授受作用

原理講論p50、創造原理
第二節万有原力と授受作用及び四位基台
(二)授受作用

「あらゆる存在をつくっている主体と対象とが、万有原力により、相対基準を造成して、良く授け良く受ければ、ここにおいて、その存在のためのすべての力、すなわち、生存と繁殖と作用などのための力を発生するのである。このような過程を通して、力を発生せしめる作用のことを授受作用という。」
 
・・・万有原力により、相対基準を造成・・・
 
『万有原力』は、相手と「関わりを持ちたいなあ」というような力の源です。
 
『相対基準を造成』とは、例えば「あいさつ」をしたり、「笑顔」で会釈したり、
最初に相手にアプローチしようと考え、それを行動に表します。
 
それを受けた相手の人が、さらに『万有原力』によって、
そのアプローチしてくれた人に意識を合わせようとします。
 
そして、お互いの気持ちが通じれば、相対基準が造成されます。
つまり、対話が始まります。
 
それが授受作用です。
 
すべての存在は、初めに相手にアプローチしようとする力によって存在します。
すなわち、『授ける』ことからすべてが始まります。「為に生きる」ということです。

すべての存在の基本ですね。

2009年12月18日金曜日

万有原力

原理講論p50、創造原理
第二節万有原力と授受作用及び四位基台
(一)万有原力

「神はあらゆる存在の創造主として、時間と空間を超越して、永遠に自存する絶対者である。したがって、神がこのような存在としておられるための根本的な力も、永遠に自存する絶対的なものであり、同時にこれはまた、被造物が存在するためのすべての力を発生せしめる力の根本でもある。このようなすべての力の根本にある力を、我々は万有原力と呼ぶ。」

・・・すべての力の根本にある力・・・

冒頭部分には、神について明確に述べられています。
その神ご自身を、神たらしめるその力が『万有原力』。

『万有原力』は、為に生きるという真の愛の源泉ということになります。

この『万有原力』によって生じる作用が、次にある『授受作用』です。

2009年12月13日日曜日

神と被造世界との関係

原理講論p.48、創造原理
第一節神の二性性相と被造世界
(二)神と被造世界との関係より

「二性性相を中心として見た神と被造世界との関係を要約すれば、被造世界は、無形の主体としていまし給う神の二性性相が、創造原理によって、象徴的または形象的な実体として分立された、個性真理体から構成されている神の実体対象である。」

・・・創造原理によって・・・

宇宙や人間などが誕生したのは、偶然ではなく
『創造原理』という明確な法則をもって、計画的に作られたのです。

ニュートンの有名な逸話があります。
ニュートンは、腕利きの職人に、太陽系の精巧な模型を作らせ、
歯車とベルトで、各惑星が動く仕掛けになっていた。
ある日、無神論で科学者の友人がこの模型を見て、
「これは素晴らしい、いったいだれが作ったんだ」、と尋ねた。

ニュートンは、わざとこう答えた、
「作者はいない。いろいろなものが集まって、
たまたま、そういう形になったのだ。」

「人をばかにしないでくれ。誰かが作ったに決まっている。」

「そう思うのか?これは途方もなく大きく美しい宇宙のごくお粗末な模型にすぎない。
実際の太陽系には歯車もベルトも使われていない。
この模型が設計者も制作者もなく、ひとりでにできたといっても君は信じない。
それなのに、この仕掛けの手本となった本物の太陽系が、
設計者も制作者もなしに、ひとりでにできたというのか。」

ニュートンは生涯を通じてキリスト教を研究し、
聖書史実の年代確定に天文学を導入し、歴史観を再構築しました。

神の実存を前提とする科学が必要なのだと思います。

2009年12月12日土曜日

神の実体対象

原理講論p.47‐48、創造原理
第一節神の二性性相と被造世界
(二)神と被造世界との関係より

「被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た実体に分立された、神の実体対象であることが分かった。」
「このような実体対象を、我々は個性真理体と称する。」
「人間は神の形象的な実体対象であるので、形象的個性真理体といい、人間以外の被造物は、象徴的な実体対象であるために、それらを象徴的個性真理体という。」

・・・個性真理体・・・

『個性』とは、他の人・物から区別しうるような、固有の特性のことをいいます。
『真理』とは、どんなときにも変わることのない、永遠不変の普遍的な理法を意味します。
この二つの単語がくっついて、『個性真理体』となると、その意味は、

一つ一つの存在は、永遠に変わることのない、他に代えることのできない価値をもった存在、

ということになりましょうか。

例えば、
ある家庭に、子供が産まれました。
しかし、その子は病気で1歳になる前に亡くなりました。
その後、その家庭はまた子供を身ごもりました。

周囲の人たちは、「また、子供ができて本当によかったね。」
と言ってくれます。

では、その生まれてきた子供は、亡くなった子の身代りになれるのでしょうか?

それは絶対に、なれないのです。
子供を失った親ならだれでもわかることです。

親は、亡くなった子供から、かけがえのない愛を受けていたからです。
その愛は、誰も取って代わることができません。

『個性真理体』とはすなわち、
人間一人ひとりには、誰にも代えることのできない価値を持っていて、
神にとって、どのような人間も必要としているということです。

この世に、必要のない人間なんていないのです。

2009年12月9日水曜日

神とは

原理講論p.47 創造原理
第一節 神の二性性相と被造世界
(一) 神の二性性相 より

「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。」

・・・性相的な男性格主体・・・

神とはどのような存在であるのか?
という問いに対する答えがここにあります。

『本性相』と『本形状』は、人間に例えると『心』と『体』
中和的主体ということは、ひとつになって調和している状態。
わかりやすく表現するならば、愛の人格を完成している状態。

『本性相的男性』と『本形状的女性』・・・男と女ということですが、
中和的主体とは、どのような状態をあらわすのかというと、

男女が一つになり、夫婦となり、『親』として存在していることをあらわします。

そして、「性相的な男性各主体」・・・
すなわち、私たち人間をはじめとする全ての存在に対しては、
目に見えない『父親』として接してくださる『神様』ということです。

ちなみに、『本形状的女性』なので、「母なる大地」といいますね。

私たち人間は、大地という母体の中で生きているということになります。
母の胎中で生きていれば、当然、親の顔は見ることができません。
でも、胎中に語りかける親の声は聞こえますね。

そう、それが神の声です。

2009年12月8日火曜日

神を中心として完成された被造世界

原理講論p.47 創造原理
第一節神の二性性相と被造世界
(一)神の二性性相 より

「神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。」
「したがって、この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである。」
「神が、被造世界の中心である人間を、神の形状である(創一・27)と言われた理由もここにある。」

・・・一つの完全な有機体・・・

宇宙全体をひとりの人間に例えるならば、
神は心であり、人間は一つ一つの細胞のようなものかな。

一人ひとりの人間は、神を中心につながっているのです。

別々の存在だと思うから、平気で他人を傷つけてしまう。

人間に例えるなら、自分のからだの中で細胞同士が傷つけあってる・・・
・・・恐ろしい痛みが伴うでしょうね。

人間が争うたびごとに、神はその痛みに耐え続けているのです。

2009年12月1日火曜日

神の本陽性と本陰性

原理講論P46、創造原理
第一節神の二性性相と被造世界
(一)神の二性性相

「本来、神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である」

・・・相対的関係をもって現象化・・・

本性相は、本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化
本陰性も、本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化

具体的にわかりやすく解説すると、
本性相は、人間に置き換えると『心』
『心』の陽性・陰性とは、「喜怒哀楽」などの感情のこと。

陽性が強くなると、『心』は「喜・楽」という気持ちをあらわします。
陰性が強くなると、『心』は「怒・哀」という気持ちをあらわします。

本形状は、人間に置き換えると『体』
『体』の陽性・陰性とは、「男性ホルモン・女性ホルモン」や「交感神経・副交感神経」などのこと。

男性は、当然「男性ホルモン」で男らしくなっていますが、
わずかながら「女性ホルモン」も持っています。

女性も、当然「女性ホルモン」で女性らしくなっていますが、
わずかながら「男性ホルモン」も持っています。

本陽性と本陰性は、単独で存在しているのではなく、
本性相と本形状にくっついていて、本性相・本形状の性格をつくっているということです。

2009年11月29日日曜日

神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体

原理講論p.46、第一章創造原理
第一節神の二性性相と被造世界
(一)神の二性性相より


「既に述べたように、存在するものはいかなるものでも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在するという事実が明らかにされた。」
「それゆえに、森羅万象の第一原因としていまし給う神も、また、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在せざるを得ないということは、当然の結論だといわなければならない。」
「創世記一章27節に『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された』と記録されているみ言を見ても、神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体としてもいまし給うということが、明らかに分かるのである。」

・・・神は自分のかたちに人を創造・・・

神自体は無形ですが、
見えるかたちにしてみると、それが、人の姿ということです。

しかも、男性と女性の二人に分けられるのです。

つまり、男性と女性の原点は神という一つの存在なので、
男性と女性は一つになることで、神に似てくるということになりますね。

陽性と陰性が中和ということは、かたよらずにバランスがとれた状態
すなわち、安定して、調和がとれているということ。

調和の取れた夫婦関係を築くことが、人間が神に似るための一番の近道かな。

2009年11月27日金曜日

あらゆる存在の第一原因

原理講論p.46、第一章創造原理

第一節神の二性性相と被造世界
(一)神の二性性相より

「この存在は、まさしく、あらゆる存在の第一原因として、これらすべてのものの主体となる性相と形状とを備えていなければならない。存在界のこのような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相と形状のことを、神の本性相と本形状というのである。」
「我々は、今、パウロが論証したように、あらゆる被造物に共通に見られる事実を追求することによって、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体として、すべての存在界の第一原因であられることが理解できるようになった。」

・・・二性性相の中和的主体・・・

神は無形の存在なので、本性相も本形状も無形です。
中和とはどちらにもかたよらないで、バランスの取れた状態を意味します。

もっとわかりやすく表現すれば、
「思い」(性相)と「行動」(形状)が一致している、ということになるかと思います。

そして、「すべての存在界の第一原因」なので、「主体」となります。

2009年11月24日火曜日

エネルギーが素粒子を形成

原理講論p.46、第一章創造原理
第一節神の二性性相と被造世界
(一)神の二性性相より

「今日の科学によると、原子を構成している素粒子は、すべてエネルギーから成り立っているという。」
「それゆえ、そのエネルギーが素粒子を形成するためには、必ずそのエネルギー自体の中にも、素粒子形成の目的を指向する性相的な部分がなければならないということになる。」
「更に一歩進んで、このように性相と形状とを備えているそのエネルギーを存在せしめることによって、あらゆる存在界の究極的な原因となるところのある存在を我々は追求せざるを得なくなるのである。」

・・・究極的な原因・・・

「物質の誕生」に関してウィキペディアを参照すると、
『ビッグバン仮説によれば、ビッグバンにより始まったエネルギーは、やがて素粒子を生み出し、素粒子が結合して原子となる。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%B3%AA#.E7.89.A9.E8.B3.AA.E3.81.AE.E8.AA.95.E7.94.9F

と、あります。

無形のエネルギーがどうして、形状を持つ素粒子を形成したのか?
これは、科学的視点から、宗教的な視点へ移さなければ、
回答を得ることはできない内容です。

そこで、「素粒子形成の目的を指向する性相的部分」となるわけです。

さらに、そのエネルギーはどこから・・・?

もはや、科学の分野では解明不可能なところに行きつきます。

その究極的な原因を、『神』と呼んで間違いないですよね。

2009年11月17日火曜日

根本的な、いま一つの二性性相の相対的関係

原理講論p.44、第一章創造原理
第一節神の二性性相と被造世界
(一)神の二性性相より

「我々はすべての存在を形成しているもっと根本的な、いま一つの二性性相の相対的関係を知らなければならない。」
「存在するものはすべて、その外形と内性とを備えている。そして、その見えるところの外形は、見ることのできない内性が、そのごとくに現れたものである。」
「したがって、内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。」
「そこで、前者を性相といい、後者を形状と名づける。」
「ところで、性相と形状とは、同一なる存在の相対的な両面のかたちを言い表しており、形状は第二の性相であるともいえるので、これらを総合して、二性性相と称するのである。」

・・・相対的な両面のかたち・・・

人間にとって 『性相』=『心』、『形状』=『体』

『心』は目で見ることができません、
しかし、私たち人間には、間違いなく心がありますね。

そして、『心』を目で見ることができないからといって、
人の『心』を知ることができないわけではないですよね。

その人の表情や、しぐさ、着ている服・・・・よく見れば、
機嫌が良いのか悪いのか、元気なのか落ち込んでいるのか
その人の『心』を知ることができます。

見えない『心』が、見える『体』に、
そのまま表れるようになっているのです。

それがすなわち、「同一なる存在の相対的な両面のかたち」
ということです。

2009年11月14日土曜日

普遍的に潜んでいる共通の事実

原理講論p.42、創造原理
第一節神の二性性相と被造世界
(一)神の二性性相 より

「今我々は、神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。」
「存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相(にせいせいそう)の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在するようになるのである。」

・・・陽性と陰性の二性性相・・・

「性相」という言葉は、日本語では、
ほとんど使うことがないために、
はじめて統一原理にふれる人にとっては、
意味が分かりにくいかもしれません。

「性」とは、もともと備わっているものをあらわし、
「相」とは、そのもののありさまをあらわします。

何だか、もっとわかりにくくなってしまいましたが、

創造原理では、この「性相」という言葉がたくさん使われます。

この言葉は、直接見ることができない本質を言い表している
と理解すると良いかもしれません。

2009年11月9日月曜日

無形にいます神の神性

原理講論p.42、創造原理
第一節 神の二性性相と被造世界
(一)神の二性性相 より

「あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟(せいひん)の実体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたものなのである。」

・・・神性の、その実体対象・・・

自然界における、森羅万象を目撃する時、
例えば、

荘厳な山々、深い緑に包まれた森・・・

静かな湖畔に霧が立ち込める姿・・・

薄明るい東の空から昇ってくる太陽・・・

荒れ狂う波しぶきが雪のように舞い散る海岸・・・

・・・偶然に、このような場面に遭遇したと思ってしまえば、
何の情緒も、感動も生じないでしょうね。

「神が宿るような世界だなぁ」と思うからこそ、
そこに畏敬の念を感じ、また感動をおぼえ、
誰もが神性を感じる瞬間なのではないでしょうか。

実体対象とは、この世にある全て存在の事を指します。

この世にある全ての存在には、神性が宿っていると考えたらわかりやすいのです。

2009年11月6日金曜日

人生と宇宙の根本問題を解決するために苦悶

原理講論p.41、第一章創造原理より

「人間は長い歴史の期間にわたって、人生と宇宙の根本問題を解決するために苦悶してきた。けれども、今日に至るまで、この問題に対して納得のいく回答を我々に与えてくれた人はまだ一人もいない。」
「それは本来、人間や宇宙がいかに創造されたかという、究極の原理を知らなかったからである。」

・・・究極の原理を知らなかった・・・

普通の人間であれば、人生の中で一度は
「自分の人生って何なのだろう・・?」
と、考えますよね。

しかし、考えても考えても、
親に聞いても、先生に聞いても、
答えが見つからないので、

結局、自分に妥協して、
「そんなこと考えても仕方がないか」と、ひらきなおって、

最低限、悲しい人生にならないように
「豊かに生活するための人生」になってしまっています。

その生き方が悪いと言っているのではありませんが、
私たちの人生には、明確な目的があるのです。

もっと価値ある人生への道を、統一原理は示そうとしているのです。

2009年11月4日水曜日

真理の光を浴び、蘇生していく

原理講論p.38、総序より

「暗い道をさまよい歩いてきた数多くの生命が、世界の至る所でこの真理の光を浴び、蘇生していく姿を見るたびごとに、感激の涙を禁ずることができない。いちはやくこの光が、全世界に満ちあふれんことを祈ってやまないものである。」

・・・感激の涙を禁ずることができない・・・

原理講論、総序の一番最後の部分。
ここをはじめて読んだ人たちが、
感涙する姿を、私は何人も目撃してきました。

はじめて統一原理にふれ、まだ何も分からないはずなのに、
何かを感じて、涙を流しているのです。

本人に聞いても、なぜかわからないけど、
自然に涙が出てくるという人ばかりでした。

統一原理・・・
批判的にではなく、真剣に求めて学べば
なぜ、人を引き込む力があるのか
必ずわかるはずです。

2009年11月2日月曜日

ここに発表するみ言はその真理の一部分

原理講論p.38、総序より

「ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。」

・・・それを切に待ち望む・・・

原理講論が出版されたのが1966年。
今から43年前の事です。
原理講論をまとめた方が劉孝元先生。

劉孝元先生が原理講論の草稿を文先生にお見せした時、
文先生が一字一句全てをチェックされ、
発表する時期に至っていない真理は削除されたと聞いています。

現在、文鮮明先生が公式に語られた『み言集』が700巻を超えています。
つまり、原理講論を出版された以降も、
継続的に、真理を発表してこられました。

切に待ち望んできた未発表の真理を知るためには、
文先生の『み言集』を読むことで理解できるのですね。
 ・・・すべて韓国語ですけど。

2009年10月31日土曜日

神と霊交なさることによって

原理講論p.38、総序より

「そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのである。」

・・・天倫の秘密を明らかに・・・

真理を明らかに解明するためには、

地上で目に見える世界の事だけを、
探究するのではなく、

目に見えない存在との交流を通して、
はじめて、なすことができるのです。

見えない世界だからといって、それを無視する生き方は、
人生を滅ぼしてしまいます。

世の中には、目に見えない物の方が
大切なことがたくさんありますよね。

2009年10月29日木曜日

最大の試練の道をすべて歩まなければ

原理講論p.38、総序より

「人間として歩まなければならない最大の試練の道を、すべて歩まなければ、人類を救いうる最終的な真理を探しだすことはできないという原理を知っておられたので、先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、勝利されたのである。」

・・・億万のサタン・・・

「億万のサタン」とは、いったいどのような悪の勢力なのだろう。
しかし、どのような説明を受けたとしても、
私たちにはわからないかもしれない・・

そのような悪の存在と直接闘った方しか、
理解できないだろうと思います。

2009年10月26日月曜日

蒼茫たる無形世界をさまよい歩きつつ

原理講論p.38 、総序より

「先生は、幾十星霜を、有史以来だれ一人として想像にも及ばなかった蒼茫たる無形世界をさまよい歩きつつ、神のみが記憶し給う血と汗と涙にまみれた苦難の道を歩まれた。」

・・・神のみが記憶し給う・・・

真理を探究するために、どれだけ孤独な闘いだったのだろう。

『神のみが記憶し給う』と表現されるぐらい
誰も知らないところで、大変な闘いをされたのだろうと思う。

今も、多くの人々は、文先生のこの『苦難の道』を知らない・・・

2009年10月23日金曜日

一人のお方を遣わし給うた

原理講論p.38、総序より

「神は、既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、一人のお方を遣わし給うたのである。」
「そのお方こそ、すなわち、文鮮明先生である。」

・・・文鮮明先生・・・

このお方ゆえに、
本当の世界平和が訪れるのです。
人類に救いがもたらされるのです。

この方は本物か、偽物か・・・
いずれ、歴史が証明するでしょう。
・・・イエス・キリストの時がそうだったように。

文鮮明先生とイエス・キリスト・・・
お二人とも、激しい誹謗中傷を浴び、
無実の罪で裁かれ有罪判決を受けます。
文先生は投獄され、イエス・キリストは十字架で死刑でした。

文鮮明先生とイエス・キリストには多くの共通点があります。

文鮮明先生はどのような方なのか・・・
自叙伝、買って読んでみてください。

2009年10月21日水曜日

人間を命の道へ導く最終的な真理

原理講論P37-38、総序より

「このように、人間を命の道へと導いていくこの最終的な真理は、いかなる教典や文献による総合的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも、編みだされるものではない。」
「それゆえ、聖書に「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」(黙一〇・11)と記されているように、この真理は、あくまでも神の啓示をもって、我々の前に現れなければならないのである。」

・・・あくまでも神の啓示をもって・・・

人間は長い歴史をかけて、真理を探究してきました。
しかし、人間の頭脳からだけでは、無理だったのです。

『神の声』を聞くことができる人でなければ、
この最終的真理を現せないということ・・・。

文鮮明先生の自叙伝には、
どのようにして『神の声』を聞いたか
具体的に書かれています。

自分も『神の声』を聞きたい!
という人は、自叙伝を読んでみてください。

必ず分かりますから。

2009年10月17日土曜日

『あからさまに』解いてくれる

原理講論p.37、総序より

「象徴と比喩によって記録されている数多くの難問題を、かつてイエス御自身が直接話されたように、例えをもってではなく、だれしもが共通に理解できるように、『あからさまに』解いてくれるものでなければならない(ヨハネ一六・25)。」
「このような真理であってこそ初めて比喩と象徴によって記されている聖句を、各人各様に解釈することによって起こる教派分裂の必然性を止揚し、それらを統一することができるのである。」

・・・教派分裂の必然性を止揚し・・・

聖書のたとえ話には、難解なものが少なくない。
その解釈をめぐって、教派が分裂してきたのも事実。

ちなみに、キリスト教だけが聖書を用いているのではありません。
ユダヤ教だって、イスラム教だって聖書を使っています。
また、非公式な見解ではありますが、仏教の経典にも
聖書に基づいて書かれたものもあるといわれています。

ですから、聖書の問題を解決できたならば、
この世に存在するあらゆる宗教を統一できる可能性がありますね。

実際に、統一教会には宗教の壁が存在しないので、
さまざまな宗教を信仰している方々が、
文先生をメシヤと信じ、祝福を受けています。

神様の願いを実現する事が出来るならば、
どのような宗教でも構わないということですね。

2009年10月13日火曜日

イエスの十字架の血によって完全に赦罪・・・?

原理講論P.37、総序より

「イエス以後二〇〇〇年にわたるキリスト教の歴史の期間を通じて、イエスの十字架の血によって完全に赦罪することができたと自負してきた信徒たちの数は、数え尽くせないほど多かった。しかし実際には、罪のない個人も、罪のない家庭も、罪のない社会も、一度たりとも存在したことはなかったのである。」

・・・一度たりとも存在したことはなかった・・・

罪のない平和な世界を、
誰もが望んでいるにもかかわらず、

平和を愛するキリスト教信徒ですら、
罪の問題から解放されていない。

罪のない平和な世界を作るため、
キリストは十字架についたのに、

私たちは、あと何回キリストを
十字架につけてしまうのだろうか・・・

人類は、同じ過ちを繰り返してはいけない。
もう、再臨のキリストが来ているのだから。

2009年10月6日火曜日

キリスト教の難解な問題を明白に

原理講論P.36、総序より

「またこの新しい真理は、今日の文化圏を形成する世界的な使命を帯びているキリスト教の数多くの難解な問題を、明白に解いてくれるものでなければならない。」
「知識人たちは、ただ単純に、イエスが神の子であり、人類の救い主であられるという程度の知識だけでは、到底満足することができないので、この問題に対するより深い意味を体得するために、今日まで、神学界において、多くの論争が展開されてきたのである。」

・・・到底満足する事ができない・・・

キリスト教を知らない日本人はいないと思いますが、
キリスト教の「教え」が何なのかを知っている日本人は、
ほとんどいないと思います。

なので、キリスト教の難解な問題といっても
ピンとこないかもしれませんね。

例えば、イエスと神は同一の存在なのか?
神学の世界では非常に難しい問題のようです。

現代の知識人を納得させるだけの理論があれば、
満足する事が出来るのでしょうね。

2009年10月3日土曜日

歴史を計画し導いてこられた神

原理講論p.36、総序より

「これらの問題が明確に解明されれば、我々は歴史を計画し導いてこられた何らかの主体、すなわち、神がいまし給うということを、どうしても否定することはできなくなるのである。」
「そうして、この歴史上に現されたあらゆる史実が、とりもなおさず、堕落人間を救おうとしてこられた神の心情の反映であったということを悟るようになるに相違ない。」

・・・神の心情の反映・・・

冒頭にある「これらの問題」とは、
人類罪悪歴史がいかに出発し、いかなる過程を経て終結し、いかなる世界へ入るか、
という問題です。

歴史に綴られてきたあらゆる史実は、
「堕落人間を救おうとしてこられた神の心情の反映であった」

歴史を計画し、世界平和の方向へ導こうとしてこられた神がいます。

この事が理解できれば、人類は道を間違えることなく
平和への歴史を綴ることができただろうと思います。

2009年9月24日木曜日

被造世界に秘蔵されている科学性

原理講論P.35、総序より

「我々が、被造世界に秘蔵されている科学性を調べていくと、それらを創造された神こそ科学の根本でなければならないと推測されるのである。」

・・・神こそ科学の根本・・・

今、最先端の科学は、神の存在を証明しつつあります。

「神様は、もう科学の常識?」(光言社:小林 浩 著)
http://www.kogensha.com/products/books/2341.html

この本はちょっと難解な部分もありますが、
宗教的な分野を、科学の面から実証しています。

科学がもっと発展すれば、もっとわかりやすく、
神の存在を証明できるようになるのでしょうね。

2009年9月15日火曜日

新しい真理は、創造本然の人間へと帰っていくことができるように

原理講論P.35、総序より

「その新しい真理は、堕落人間が、その創造本然の人間へと帰っていくことができるように、神が人間をはじめとして、この被造世界を創造されたその目的はいったい何であったかということを教え、復帰過程の途上にある堕落人間の究極的な目的が、いったい何であるかということを知らしめるものでなければならない。」

・・・被造世界を創造されたその目的は・・・

なぜ、この宇宙があるのだろう・・
なぜ、人間が存在するのだろう・・

あらゆる存在は、その存在目的に適ったときに、
はじめて、その存在の価値を表すことができるのです。

例えば、万年筆。
この存在目的は、誰もが知っているように、
「紙に文字などを書く」ことです。

もし、原因不明でインクが出なくなったとしたら・・・

捨てるのも、もったいないので、字は書けないけれど
ペン先のキャップが、丸みがあって、心地よさそうなので
「つぼ押し用の棒」として、肩に押し当てて使ってみます。

使えないことは無いけれど、万年筆の価値が・・・

私たち人間も、自分の存在目的を知らずに、
「つぼ押し用の棒」のような人生を歩んではいないだろうか。

人生、楽しく生きることができても、
本当に価値ある生き方なのだろうか。

2009年9月11日金曜日

救いの摂理の究極的な目的

原理講論p.34、総序より

「ここにおいて、我々は、神の救いの摂理の究極的な目的が、地上天国を建設するところにあるという結論を得た。」

・・・地上天国を建設する・・・

一般的に、よく言われていることですが、

死後の世界には「天国」と「地獄」があって、

 良い行いをした人は「天国」!
 悪い行いをした人は「地獄」!

「天国」って、死後の世界の事だけ、かと思っていましたが、
地上にも「天国」を建設することが究極的な目的だったとは。

「地上天国」・・・実現したら、すごいことですね!

2009年9月9日水曜日

罪を犯せば人間は否応なしに地獄に

原理講論p.34、総序より

「神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、だれがあえて罪を犯すことができようか。」
「罪のない世界がすなわち天国であるというならば、堕落した人間が長い歴史の期間をかけて探し求めてきたそのような世界こそ、この天国でなければならないのである。」
「そうして、この天国は、地上に現実世界として建設されるので、地上天国と呼ばれるのである。」

・・・誰があえて罪を犯すことが・・・

ちなみに、ここでいう「罪」とは、宗教的な意味での罪のことですね。
すなわち、天法に違反するという「罪」です。

大半の人は、
誰でも「罪」を犯したくて、犯している訳ではないですよね。
仏教的に言えば、「魔がさした」という表現になるのでしょうか。

地獄に行くことがどれほど恐ろしいことか・・・
それが、わからないから・・・もしくは、地獄の存在すら否定しているから、
一時的な喜びのために、軽い気持ちで「罪」を犯し続けてしまう。

ところで、「天法に違反する罪」ってどんな罪でしょうか。
・・・統一原理を学んだら理解できるはずですね。

2009年9月5日土曜日

一つの真理により、築かれる世界とは

原理講論p33、総序より

「それでは、全人類が、一つの真理により、一つの兄弟姉妹として、一つの目的地において、相まみえるようになるとすれば、そこにおいて築かれる世界とは、どのような世界なのであろうか。」
「この世界こそ、悠久なる歴史を通じて、人生の両面の無知から脱却しようと身もだえしてきた人類が、その暗黒から逃れでて、新しい真理の光の中で相まみえ、一つの大家族を形成していく世界なのである。」

・・・その暗黒から逃れでて・・・

私たちがいま生活している世界が、暗黒だとは
誰も意識してないかもしれない。

明るい所から、急に暗い所に行くと
一瞬、目が見えなくなって、真っ暗闇状態となりますが、
しばらく時間がたつと、慣れて普通に見えるようになりますね。

今の私たちも、この暗闇の世の中に慣れてしまって、
この、本来なら違和感のあるはずの世界が、
当たり前のようになっています。

統一原理を学ぶと、明るい光が差し込んで、
この世界がどれほど暗黒だったのかが
ようやくわかるようになりました。

・・・「慣れ」って恐ろしいですね。

2009年9月2日水曜日

神の実在と来世の実相

原理講論P.33、総序より

「人間が宗教を信じようとしないのは、神の実在と来世の実相とを知らないからである。いかに霊的な事実を否定する人であろうと、それらのことが科学的に証明されるならば、信じまいとしても信じざるを得ないのが人間の本性である。」
「また、現実世界に人生の究極の目的をおく人々は、だれしも、最後にはむなしさを味わわずにはいられない。これまた人間の天性の発露であり、何人といえども避けることのできない感情である。」

・・・むなしさを味わわずにはいられない・・・

私がまだ小学生のころ、父にプラモデルやラジコンを買ってくれと、
よくおねだりをしていました。

自分が欲しい物があると、それを手に入れたくて、
朝から晩までそのことをずーっと考え続けて、
そして、勇気を持って父におねだりです。

でも、すぐに「いいよ」とは言ってくれない父でした。
それでも、子供ながらに父を説得し、

「じゃあ買っていいよ」
と言ってくれた時の喜びは最高です。

さて、いよいよ欲しかった物が手に入るわけですが、
実際に目の前に来ると、いつも感じたのは、
・・・「なんかちがう・・・・」
嬉しいのは嬉しいのですが、喜びが半減して「なんかちがう」のです。

今思えば、「むなしさ」を感じていたのです。

そうなんです、私が最高に喜んでいたのは、
目の前に現実にある物(プラモデルとかラジコンとか)ではなくて、
私が欲しい物を、父が理解して買ってくれるという、

「父の愛情」を感じて喜んでいたのだなぁ・・・ということ。

統一原理を学んで、今になってようやく悟ることができた世界です。

2009年8月31日月曜日

主義・思想・宗教の統一

原理講論p.32-p.33、総序より

「この真理は、有史以来のすべての主義や思想はもちろんのこと、あらゆる宗教までも、一つの道へと、完全に統一し得る真理でなければならないのである。」

・・・あらゆる宗教までも、一つの道へ・・・

あらゆる宗教の目指す道は、いずれも似たような方向になっていると思う。
でも、とらえ方や、価値観の違い、
目指す道を達成するための、手段・方法の違い
などから、対立が生じているのが現実でしょう。

誰もが納得できるような、普遍的な真理であれば、
そのような対立を解消することができますね。

実際に、統一原理の理念に基づいて
このような「宗教者による平和の祈り」
http://www.gpf-j.org/report/main_report_main.html

が、行われたということは、
本当に実践力を持った真理なのだなと実感です。

2009年8月29日土曜日

民主主義と共産主義との内的な理念の闘い

原理講論P.32、総序より

「我々の前には、避けることのできない最後の闘いがまだ一つ残っている。それは、とりもなおさず、民主主義と共産主義との内的な理念の闘いである。」

「彼らはお互いに恐怖すべき武器を準備して、外的な闘いを挑んではいるが、実際のところはこの内的な理念の闘いに勝利するために、心ならずもこれらの外的な武器を用いているにすぎないのである。」

「それでは、この最終的な理念の闘いにおいて、どちらに勝利がもたらされるかといえば、神の実在を信ずるすべての人は、だれしもそれは民主主義だと答えるであろう。」

「しかし、既に論じたように、今日の民主主義は、共産主義を屈伏せしめ得る何らの理論も実践力ももちあわせてはいないのである。」

・・・何らの理論も実践力ももちあわせてはいない・・・

共産主義の思想に触れたことのある人はわかると思うが、
それが真理であるか、偽真理であるかは別として、
とても整理された、緻密な理論に驚きます。

富を公平に分配する目的で出発した共産主義国家は、
結局、国家経済の破綻に至ってしまい、

思想の自由を求めて出発した民主主義国家は、
経済的には豊かになりはしたものの、
少子化・離婚・凶悪犯罪の増加で国家の危機に向かっている。

・・・・なんだか、難しい話になってしまいました。

結論は、新しい真理はそのような問題も解決できる真理ということですね。

2009年8月27日木曜日

この新しい真理は、神の実在性を教える

原理講論P.31、総序より

「人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。」
「しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。」
「ましてや神の心情についてはなおさらである。」

「それゆえ、この新しい真理は、神の実在性に関することはいうまでもなく、神の創造の心情をはじめとして、神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教えることのできるものでなければならない。」

・・・神を離れては生きられない・・・

もし、死を覚悟するような窮地に直面した時、
どんな人でも「神様助けて!」と叫ぶのではないだろうか。

心の底では、誰でも神の存在を認めているという証拠になるのかな・・・

2009年8月25日火曜日

「知ること」は命の光

原理講論p.31、総序より

「堕落人間にとって、「知ること」は命の光であり、また蘇生のための力でもある。」
「そして、無知は死の影であり、また破滅の要素ともなるのである。」
「無知からはいかなる情緒をも生じ得ない。」
「また、無知と無情緒からは、いかなる意志も生ずることはできないのである。」

・・・無知と無情緒からは、いかなる意思も生ずることはできない・・・

人間が様々な事柄について「知ること」を求めるのは、
このような理由からだったのですね。

近ごろの若者が、意欲なくダラダラ生きているのは
無知と無情緒から、生きる意思を失っている・・・
・・・から、なのかもしれないですね。

2009年8月20日木曜日

人間の矛盾性、修道生活の矛盾性とを克服

原理講論p.31、総序より
「また、堕落人間をして、邪心が指向する悪への道を遮り、本心の追求する善の目的を成就せしめることによって、善悪両面への指向性をもっている人間の矛盾性と、前述のような、宗教人たちが当面している修道の生活の矛盾性とを、克服できるようなものでなければならない。」

・・・邪心が指向する悪への道・・・

今まで多くの人々は、この「悪への道」を遮ることができなくて、
結局、いけないとは思いつつも、悪の思いに負けてしまって、
それに妥協した生き方をしてしまいますよね。

良心のままに生きる方法を知ることができたら、
どれだけ、気が楽になるだろうか。

2009年6月12日金曜日

新しい真理の使命

原理講論p.31、総序より
「この真理はまず、既に論じたように、宗教が探し求めてきた内的真理と科学が探し求めてきた外的真理とを、統一された一つの課題として解決し、それによってすべての人々が、内外両面の無知を完全に克服し、内外両面の知に至ることができるようなものでなければならない。」

・・・全ての人々が、内外両面の知に至る・・・

この統一原理が、本当に宗教と科学とを
統一課題として解くことができる真理ならば、

人間の知的好奇心を満たしてくれる、
最高の宝となるでしょうね。

2009年6月11日木曜日

新しい真理のみ言がやがて与えられる

原理講論p.31、総序より
「このような新しい真理のみ言がやがて与えられるということは、聖書の中にも数多く記録されている。」
「それでは、その新しい真理は、いかなる使命を果たさなければならないのであろうか。」

・・・いかなる使命を果たさなければ・・・

そうなのです。
この後の投稿に列挙する、その真理の使命が重要なのです。

世界と人類を本当の幸福へと導く、
道しるべとなるような、新しい真理です。

2009年6月9日火曜日

キリスト教信徒たちにとっては、理解し難いこと

原理講論p.30、総序より
「新しい真理が現れなければならないという主張は、宗教人たち、特にキリスト教信徒たちにとっては、理解し難いことのように思われるかもしれない。」
「なぜなら、彼らは、彼らのもっている聖書が、それ自体で完全無欠なものだと考えているからである。」

・・・聖書が、それ自体で完全無欠・・・?

キリスト教は、イエスが十字架で昇天されて以降、
ずーっと世界の中心宗教として、活躍してきました。
そして、イエスによってもたらされた博愛が世界を救ってきたのも事実です。

だからといって、聖書自体が真理なのではありません。
では、何が真理だったのか?

ヨハネによる福音書14章6節
「イエスは彼に言われた『わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

そうです。イエス様ご自身が真理だったのです。

イエス様がこの地上で福音のみ言を伝えることができたのは、
エルサレムに戻られてから、十字架にかけられるまでの、たった3年間・・・。

すべてを語り尽くせなかったのでした・・・

2009年6月8日月曜日

宗教と科学とは、人生両面の無知を打開

原理講論p.29-30、総序より
「このように、宗教と科学とは、人生の両面の無知を打開するための使命を、各々分担して出発したがゆえに、その過程においては、それらが互いに衝突して、妥協し難い様相を呈したのであるが、人間がこの両面の無知を完全に克服して、本心の要求する善の目的を完全に成就するためには、いつかは、科学を探し求めてきた宗教と、宗教を探し求めてきた科学とを、統一された一つの課題として解決することのできる、新しい真理が現れなければならないのである。」

・・・統一された一つの課題として・・・

今、宗教と科学とが統一された一つの課題として
解決されねばならない時を迎えていると思う。

唯物的な科学万能を否定するということではなく、
また、心霊的にのみ感じる世界を否定することでもなく、

宗教と科学とがお互いに欠如している部分を補い合うこと。

早く、統一原理をもとに、霊界の存在を科学的に立証できればと思うのです。

私たちの人生において、「霊界」が存在するか、存在しないか、
ということが、生き方を大きく左右する問題ですよね。

2009年6月6日土曜日

宗教が無能化

原理講論p.28-29、総序より
「自家撞着を打開できないところに、現代の宗教が無能化してしまった主要な原因があると思われるのである。」
「さて、宗教が、このような運命の道をたどるようになったのには、更にもう一つの重要な原因があるのである。それは、科学の発達に伴い、人間の知性が最高度に啓発された結果、現代人はすべての事物に対して科学的な認識を必要とするようになったにもかかわらず、旧態依然たる宗教の教理には、科学的な解明が全面的に欠如しているという事実である。」

・・・科学的な解明が全面的に欠如・・・

宗教では「信じる」ことで救われる、とか
「信じる」ことで、願いがかなう、とか

「信じる」力があるのですが、

なぜ、「信じる」ことが必要なのかは、
経験的に理解しているだけであって、

その「信じる」力を、
科学的に解明した宗教は無いのではないかと思う。

なぜ「信じる」ことが必要なのか・・・

私は、この統一原理を学ぶことで、
「信じる」ということを科学的に理解することができた。

つまりは、統一教会はただやみくもに「信じなさい」
と、言っていいる宗教ではないのですね。

2009年6月2日火曜日

現実を離れた来世はあり得ない

原理講論p.28、総序より
「現実を離れた来世はあり得ないがゆえに、真の肉身の幸福なくしては、その心霊的な喜びもあり得ないのである。」
「しかしながら、今日までの宗教は来世を探し求めるために、現実を必死になって否定し、心霊的な喜びのために、肉身の幸福を蔑視してきたのである。」

・・・肉身の幸福を蔑視・・・

宗教的に真理を追求しようとすると、
その先には必ず、肉身の欲望との葛藤が生じる。
そして、心霊的な世界を善、肉欲の世界を悪のように見つめてしまった。

でも、私たちがこの世界で幸福を求めようとするなら、
目で見て、からだで触れて、肉体で体験できる幸福も必要。

それは、自分のからだが一番よく知っていますよね。

それを無理に否定しようとするところに、宗教の限界があるのでした。

2009年6月1日月曜日

いかんともなしえない社会悪

原理講論p.27、総序より
「人間の努力をもってしては、いかんともなし得ない社会悪が一つある。それは、淫乱の弊害である。」
「キリスト教の教理では、これはすべての罪の中でも最も大きな罪として取り扱われているのであるが、しかし、今日のキリスト教社会が、現代人が陥っていくこの淪落への道を防ぐことができずにいるということは、何よりもまた嘆かわしい実情といわなければなるまい。」

・・・淫乱の弊害・・・

渋谷の街を散歩してみると、
「淫乱の弊害」がそのまま形状化したのでは、
と、思えてしまう光景を目の当たりにする。

未来あるはずの若者が、淫乱の世界へ向かって行く姿・・・。

キリスト教ですら、「淪落への道を防ぐことができずにいる」というのに、

過去の歴史に、キリスト教文化を受け入れなかった日本民族があるので、
なおさら、淪落に歯止めがかからないというのも、うなずけることかもしれない。

私の知る限り、この性の淪落に歯止めをかける「純潔運動」は、
文鮮明先生の提唱する統一運動でしかやっていない。

日本純潔運動本部
http://www32.ocn.ne.jp/~junketsuundou/

この「純潔運動」が若者の間で流行して、

「純潔って、カッコいい!!」

となれば、日本の未来は明るいのにね。

2009年5月30日土曜日

だれが我々の苦悶を最終的に解決してくれたであろうか。

原理講論p26、総序より
「哲人の中のだれが我々の苦悶を最終的に解決してくれたであろうか。聖賢の中のだれが人生と宇宙の根本問題を解決し、我々の歩むべき道を明確に示してくれたであろうか。」
「彼らが提示した主義や思想は、むしろ我々が解決して歩まなければならない種々様々の懐疑と、数多くの課題とを提起したにすぎなかったのである。」

・・・数多くの課題とを提起した・・・

ホントに宗教家の提示した主義や思想って、
疑問ばかりが多いですよね。

中東戦争の原因が、イスラム教とユダヤ教の宗教問題だったりして、
宗教が原因で平和をもたらさないことがありますね。

宗教的なエゴをなくさなければ・・・

宗教者ってエゴイスティックになりがち、
なので、私も、その辺はいつも反省です。

2009年5月28日木曜日

原因的な本質世界において、人生の根本問題を解決

原理講論p.25-26、総序より
「人間が歩んできたいま一つの過程は、結果的な現象世界を超越して、原因的な本質世界において、人生の根本問題を解決しようとする道であった。」
「この道を歩んできたこれまでの哲学や宗教が多大の貢献をなしたことは事実である。」

・・・哲学や宗教が多大の貢献・・・

哲学や宗教は、人生を豊かに過ごすため、
とても参考になることは事実だと思いますが、

日本人って、どちらかといえば宗教を軽視する傾向にありますよね。
でもその姿勢は、世界の非常識らしいです。

私の友人が、ニュージーランドに留学し、
ホームステイした時のことでした。

そのホストファミリーは敬虔なクリスチャンで、
食前、欠かさず、祈祷していました。

そのホストファミリーから、質問されました。
「君の宗派は何かね?」

彼は当たり前のように、こう答えました。
「僕は、無宗教です。」、と。

そのホストファミリーは驚いた様子で、
そして軽蔑にも似たまなざしで見つめて、

「では、あなたは何を信じて生きているのか?!」

と、言われたました。

相当なカルチャーショックだったようです。

そして帰国後、彼は母親にこう言ったそうです。
「お母さん、僕はどの宗教を信仰したらいいの?」、と。

世界中のほとんど人々は、信仰をもって当たり前なのです。
日本人ぐらいだと思いますよ、

特定の宗教をもたない民族は。

2009年5月27日水曜日

王宮の栄耀栄華をかなぐり捨てて

原理講論p25、総序より
「王宮の栄耀栄華をかなぐり捨てて、心の住み家を探し求め、所定めぬ求道の行脚を楽しむのは、釈迦一人に限ったことではない。」
「心があって初めて完全な人間となり得るように、喜びにおいても、心の喜びがあって初めて、肉身の喜びも完全なものとなるのである。」

・・・求道(ぐどう)の行脚(あんぎゃ)を楽しむのは・・・

おぉぉ・・なんと深い表現だろう。

確かに、「四国八十八ヶ所巡り」のお遍路さんなんかは、
修道者ではない一般の人たち(特に実業家など)が
何日もかけて、歩いて「求道の行脚」を楽しんでいますよね。

やっぱり、物質的な豊かさだけでなく、

・・・心の喜びがあって初めて、肉身の喜びも完全なものとなる・・・

のですね。

2009年5月26日火曜日

物質による結果の世界において

原理講論p24、総序より
「実際の人生の行路において、人間が歩んできた過程を二つに大別してみると、その一つは、物質による結果の世界において、人生の根本問題を解決しようとする道である。」
「このような道を至上のものと考えて歩んできた人々は、極度に発達した科学の前に屈伏し、科学の万能と物質的な幸福とを誇りとしている。しかし人間は、果たして、このような肉身を中心とした外的な条件のみで、完全なる幸福を得ることができるであろうか。」

・・・科学の万能と物質的な幸福を誇りとしている・・・

私も、科学の力と経済的豊かさで幸せになれる
と、思って、技術系サラリーマンとなり、
その業界では高い技術に誇りを持って仕事をしておりました。

自分の幼いころからの夢であった、技術者となったわけで、
それはそれで、夢を実現した喜びはありましたが、

しかし、何故か「虚(むな)しさ」を感じるのでした。

なんとなく、心が満足していないというか・・・
なんだかすっきりしない気持で仕事をしている自分がいました。

どうしてそういう気持ちになったのか・・・
それは、統一原理を学んでみて、
ようやく理解できました。

肉身を中心とする外的な豊かさ、だけでは、ダメだったのです。

2009年5月25日月曜日

宗教と科学が人生の無知を克服

原理講論p.24、総序より
「このような角度から理解すれば、宗教と科学とは、人生の両面の無知を克服して両面の知に至る道を見いだすべく両面の真理をそれぞれ探求する手段であったということを知ることができるのである。」
「それゆえに、人間がこのような無知から完全に解放されて、本心の欲望が指向する善の方向へのみ進み、永遠の幸福を獲得するためには、宗教と科学とが統一された一つの課題として解決され、内外両面の真理が相通ずるようにならなければならないのである。」

・・・宗教と科学とが統一された一つの課題として・・・

私が統一原理に初めて触れたとき、この言葉にとても感動し、
また、反面では、どうやってそんなことができるのか。

と、心を揺さぶられたのを思い出します。

宗教と科学とは、相容れない部分が多いのは誰もが知っています。
心霊的な世界を肯定する人たちと、それを否定する科学者などが
テレビ番組などで、面白おかしく対談(対決?)しているのをよく見ますが、
結局、どっちもどっち、中途半端で結論なく終わっていますよね。

もし、それを一つにすることができる真理があるとすれば、

『人間の生き方が大きく変わる。』

人類の未来へ大きな希望がある・・・かも、です。

2009年5月22日金曜日

真理を探し求めてきた

原理講論p.24、総序より
「人間は有史以来今日に至るまで、休むことなく、無知から知へと、無知を克服しようとして真理を探し求めてきた。」
「その際、内的無知を克服して内的知に至る道を見いだすべく内的真理を探求してきたのがすなわち宗教であり、外的無知を克服して外的知への道を見いだすべく外的真理を探求してきたのが科学なのである。」

人は誰でも知的好奇心を持っていますよね。
疑問があれば、どんなことでも知ってみたいと思う。

これって、無意識のうちに

・・・無知を克服しようとして真理を探し求めてきた・・・

から、だったんですね。

そして、宗教と科学に分けて真理を探究するようになった訳ですが、
ほんとうは、分けて考えちゃいけないことなのです。

2009年5月21日木曜日

外的な無知

原理講論p.24、総序より
「外的な無知とは、人間の肉身をはじめとする自然界に対する無知をいうのであり、すべての物質世界の根本は何であるか、また、それらのすべての現象は各々どのような法則によって生ずるのか、という問題などに対する無知をいうのである。」

・・・物質世界の根本・・・

ソクラテスの時代に、プラトンやアリストテレスが
物質世界に関して、今の科学とは違った形で複雑に考えていたそうで、
それをイデア論といいます。

物質世界の背後にイデアというひな形があってそれが真の実在という・・・。なんだか難しい。

ちなみに、ソクラテスの弟子がプラトン。
プラトンの弟子がアリストテレス。

その、プラトンやアリストテレスに
真っ向から対立したのが、デモクリトス。
原子論といいます。

現代科学の原子のもとになる考え方ですが、
しかしその当時の人々には受け入れられませんでした。

現代科学では物質自体の根本についてはほぼ解明されていますが、
物質世界(宇宙そのもの)がどのように出現したのか、
わからない部分があるのです。

ビッグバン(宇宙が始まる大爆発)まではわかっていますが、
なぜ、時間や空間が存在しない状態から、大爆発が起きたのか?
科学者はだれも答えられないのです。

本当は簡単な答えがあるのですけどね、
「神が起爆スイッチを押した」という答えが。

2009年5月20日水曜日

内的な無知

原理講論p.23-24、総序より
「内的な無知とは、宗教的にいえば霊的無知を言うのであって、人間はどこから来たのか、生の目的は何か、死後はいったいどうなるのか、更にすすんで、来世や神などというものは果たして存在するのか、また既に述べたように、善とか悪とかいうものはいったい何なのかなどという問題に対する無知をいうのである。」

・・・生(せい)の目的は何か・・・

自分が小学生5,6年生の頃だったと思う、

「人間って、何のために生きているの?」
「人間って、死んだらどうなるの?」

と、父親に聞いてみたことがあった。

父の答えはこうだった。

「うーん・・・・、生きるために生きてるのさ。」
「死んだら、『無』だな、『無』。何んにも無くなってしまうのさ。」

子供ながらに納得できなかったことをよく覚えている。

統一原理を学んで驚いたのは、
私が幼い時に抱いたこの疑問を
いとも簡単に解決してしまったことだった。

おそるべし、統一原理。

2009年5月19日火曜日

堕落を知的な面からみれば

原理講論p23、総序より
「人間の堕落を知的な面から見れば、それはとりもなおさず、我々人間が無知に陥ったということを意味するのである。」

・・・人間が無知に陥った・・・

紀元前400年ごろ、ソクラテスが「無知の知」で、
多くの知恵者より勝ると言われた。

ソクラテスって、神の啓示によって、
自分が一番の知恵者だと教えられたそうです。

何も知らないことが一番の知恵者とは・・・

神様も、面白いことをしますよね。

2009年5月18日月曜日

有神論と無神論とについて考えるとき

原理講論p23、総序より
「例えば、有神論と無神論とについて考えるとき、二つのうちいずれか一つを善と見なせば、他の一つは悪ということになるのであるが、我々はいまだどちらが正しいかということに対する絶対的な定説をもっていないのである。」

・・・絶対的な定説をもっていない・・・

私は、この統一原理に触れる以前は、
神の存在に関しては、肯定も否定もしていなかった、
というより、神について無関心だった。

日本人のほとんどが、神の存在について無関心だと思うし、
現に、私が関わりをもってきた人たちのほとんどがそうだった。

「定説を持っていない」言われても、
神がいると信じる人生と、神がいないと信じる人生とでは
いったい何が違うのか?という反応が多かった。

日本人って、先祖や仏様を信じる人は多いけれど、
「神様」ってなると、どうも難しいらしい。

本当は、神がいると信じる人生のほうが、もっと豊かな心になれるのにね。

2009年5月16日土曜日

善の欲望に従って

原理講論p.23、総序より
「人間は、このように堕落して自己破滅に瀕しているということを知っているがゆえに、邪心からくる悪の欲望を取り除き、本心から生じてくる善の欲望に従って、一つの目的を指向することによって、それ自体の矛盾性を除去しようと、必死の努力をしているのである。」
「しかし、悲しいかな、我々は、その究極において、善と悪とがそもそもいかなるものなのかという問題を解くことができずにいるのである。」

・・・その究極において、善と悪とがそもそもいかなるもなのか・・・

「善」ってなんだろう。今まで深く考えたこともなかった・・・
人類幸福へのカギを握っている「善」なる欲望、これすら何なのかわからない。

人間って、人生の重要な部分を何も知らないのか?

2009年5月13日水曜日

人間は堕落したのだ

原理講論p.22-23、総序より
「人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。」
「このような観点から見るとき、我々は、人間は堕落したのだという結論に到達する。と同時に、だれしもこの結論に対しては反駁する余地がないということをもまた知るのである。」

・・・反駁する余地がない・・・

反駁って難しい言葉ですよね。

Yahoo!辞書 で検索すると
 はん‐ばく【反駁】
 [名](スル)他人の主張や批判に対して論じ返すこと。反論。「例をあげて―する」

たしかに、人間は堕落したということについて、反論できる人はいないと思う。

2009年5月11日月曜日

矛盾性は、後天的に生じた

原理講論p.22、総序より

「もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。」
「したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。」

・・・地上に生(せい)を享(う)ける以前から・・・

つまりは、先天的に矛盾性(本心と邪心)を持っていた場合ということですね。

もしも、この世界に善悪が混在できる世界だったとするならば、
人間は、悪を行っても、良心の呵責を感じたり、
心に矛盾を感じたりすることもなかったはず。

だから、・・・生まれるというそのこと自体不可能・・・

やっぱり、そうなんだ。
やっぱり、人間の心の矛盾は、後天的なものだったんだね。

だったら、改善の余地があるよね!

2009年5月9日土曜日

矛盾性をもつようになれば

原理講論p.22、総序より

「存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。」
「したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。」

・・・正に破滅状態・・・

人間自体の「心」が、壊れてるってことですね。
だから、自分の心が抑えられずに、悪いことばっかりしてしまう。

人間って、初めからこういう存在(破滅状態)だったのだろうか?

2009年5月6日水曜日

本心の指向性・・・邪心の指向性・・・

原理講論p.22、総序より

「ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。」

・・・熾烈な闘争を展開・・・

自分の心(本心)の声に聞き従って生きようとすると、
心の中で、まさに「熾烈な闘争を展開」するのを感じる。

そのたびに、いつも悪の欲望に負けていたりして・・・

やっぱり、「人間」って、矛盾しているよね。

2009年5月4日月曜日

不義なる欲望のままに行動して・・・

原理講論p.21、総序より

「いったい、不義なる欲望のままに行動して、本心から喜べるような幸福を味わい得る人間がいるであろうか。」
「このような欲望を満たすたびごとに、人間はだれしも良心の呵責を受け、苦悶するようになるのである。」

・・・苦悶するようになる・・・

だから、多くの人たちは、良心の呵責を感じたくないから、
善だとか悪だとか、義だとか不義だとかを深く追求しないで、

楽しいことだけを見て人生を送ろうとしている。

でも、振り返れば、虚しい人生だったよね。
心から満足いく人生ではなかったよね。

2009年5月2日土曜日

本心の喜ぶ幸福を得ようと・・・

原理講論p21、総序より

「しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。」
「人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。」

・・・善を指向する欲望に従って・・・

どんな人でも、良いことをしたいと思っている。
まさに、「善を指向する欲望」が、自分の心の中にもあることを感じるよね。

原理講論には「本心」ってあるけど、これは、自分の本音という意味合いの「本心」ではなくて、
どちらかといえば、「本心」≒「良心」と理解したらわかりやすいと思う。

2009年4月30日木曜日

欲望などといえば

一昨日のつづき・・

原理講論p.21、総序より
「しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。」

・・・悪のほうに傾きやすい生活環境・・・

自分の胸に手を当てて考えてみると、
それは確かに、悪に傾いていることのほうが多いね。

でも、悪の欲望のままに生きたい人間なんて、一人もいないんじゃないか。

2009年4月28日火曜日

幸福は・・・

原理講論p.21、総序より
「それでは、幸福はいかにしたら得られるのであろうか。人間は誰でも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感じるのである。」

・・・誰でも、自己の欲望が満たされるとき・・・

これって、どうなんですかね。
確かにそうだと思うのですが、全部が全部、幸福ってわけではないような気が・・・

あっ、次に書いてある。・・・

2009年4月27日月曜日

総序より

原理講論p.21、総序
「個人のささいな出来事から、歴史を左右する重大な問題に至るまで、すべては結局のところ、等しく、幸福になろうとする生(せい)の表現に他ならないのである。」

・・・結局のところ・・・幸福になろうとする生(せい)の表現・・・

みんな、幸福に生きようとがんばっているよね。
ほんとうに、そう思う。

2009年4月25日土曜日

統一原理をわかりやすく

統一原理のエッセンスを少しずつ・・・

原理講論p21、総序より
「人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。」

・・・もがいている・・・

本当にその通りだと思う。